火星のメッセージ

2061年7月3日、僕にとって28回目の夏は何事も無く始まり、僕はアイを連れて高原に来ていた。久しぶりの遠出なので、ガレージからガソリン・カーを引っ張り出してきた。僕はテレ・カーも好きだけど、やっぱりガソリンを噴出す車の方が好きだ。アイは"ガソリン臭い"と少しだけ苦い顔をしていたけど、高速に乗ってからのガソリンエンジンらしい伸びやかな加速を味わって、それからは何も言わなくなった。東京から一時間半、渋滞らしい渋滞にも捉まらずスムーズに高速を降り、高原の道を今度はゆっくりと走る。太陽は沈み始め、山の向こうにオレンジ色の空が広がり始めている。アイは全開になった窓から腕を投げ出し、エア・ラジオから流れているオールディズ・ナンバーに合わせて鼻歌を歌っている。

"そしていつか夏のある日 太陽のあたる場所へ行こう"
"子供のように手をつなぎ 虹の上を走るように"

「それで」と、アイがつぶやき、僕の顔を覗き込むように身体を乗り出す。運転中に危ないな、そうでなくても今日は古臭いガソリン・カーなのにと僕は顔をしかめるが、アイには伝わっていないみたいだ。「もうそろそろ、どこに向かっているか教えてくれても良いんじゃない?」背中に少し掛かるくらいのアイの髪が、窓からの風に揺れている。少し怒ったような困ったような顔、あぁ、僕はこの表情に弱いのだ、と改めて気が付く。何も隠す事が出来なくなってしまう。

「行きたいところがあるんだ」「それは知ってる。何処なの?」「この先」僕はアイの表情を見ないように前に目を凝らす。陽は山間に落ち、道はチャコールフェッチに舗装されは居るものの、真ん中の道路灯もまだ点灯していない。やや薄暗い道は夜の空気を帯び始めていた。僕はスイッチの場所に少しだけ戸惑いながら車のライトをつける。久しぶりに運転している事を実感する。


僕は「浅間山5km」という標識を見つけ、車を右折させる。ここからは一本道だ。すこし肩の力が抜けた僕はラジオの音量を落とし、ゆっくりと話し始める。僕がここにアイを連れてきた理由を。

「アイと一緒に"行きたい場所"と"見せたいもの"があるんだ」僕は一つ一つの単語を丁寧に、確実にアイに聞こえる様に話す。「この先に見せたいものがあるの?」アイが聞き返す。「いや、見せたいものはココにはない」一息置いて「と言うか地球には無い」僕は左右の看板に目を凝らす。
「なによそれ」アイは僕の答えでは不満なようだ。「まさか流星でもプレゼントするつもり?」僕は少しだけ笑う。「惜しいけど、違うな。僕はそういったロマンにはあまり興味が無いし、今は流星群の時期でも無い」それに、と僕は続ける「軌道のゴミは5年前のプロジェクトでロマンと一緒に綺麗さっぱりだ。偶然にだって期待できないな」アイは心底うんざりと言った様子で「まったく流れ星に願う事すら出来ないなんて、嫌な世の中になったのね」と、夜空を見上げる。

サンルーフを開いているから、見上げれば恐ろしいほどの星が見える。「それが僕達の取捨選択だよ。誰だって自分のオービタル・ラウンジに穴が空くのなんて望まないからね」僕は目的の看板を見つけ、車を駐車場に滑り込ませる。適当にスペースを見つけてエンジンを止める。東京から殆ど止まる事無く走り続けたエンジンは、夜でもハッキリと判るような陽炎をボンネットの上に作っていた。

「さぁ着いたよ」僕はダッシュボードから財布を取り出し、車から降りる。アイも長時間のドライブに疲れたのだろう、身体の動きを確かめるようにゆっくりと車から出てくる。僕はアイの右脇に寄り、左手を差し出す。少し汗ばんだアイの右手を僕は軽く握る。アイは高原特有の湿った冷たい空気に少しビックリしているみたいだった。周りに明かりは無く、名前もわからない虫が静かに何処かで鳴いている。僕はアイの手をとり、土がむき出しになっている道を歩き出す。都会の土よりも少しだけ柔らかく、日常と違う場所に居る事を実感する。「この先だ」と僕はつぶやく。「何があるの?」とアイは少しだけ心細そうに僕の手を握る。僕は少しずつ話し始める。

「僕の名前、タカシと言うこの少し古風な僕の名前は、僕の父さんが僕に付けてくれた名前だけど、実はもっと前からこの名前が決まっていたんだ」「どう言う事?」「アイは『のぞみ』と言う衛星を知っている?」「知らなし、どう繋がるの?」アイは話の筋が見えない事に少しだけ戸惑っているみたいだった。「『のぞみ』と言うのは、今から60年くらい前に火星を目指した衛星の名前なんだ。それは当初の目的を達成できずに、火星の公転軌道の何処かを延々と回る事になってしまった。そして企画室の解散と共にのぞみの場所はわからなくなってしまった。火星の公転軌道上にいる、と言う事を除き、ね」

僕は話を止め、腕時計に目をやる。21時37分。「だけど、ある日、火星軌道を回っていた『のぞみ』が偶然見つかったんだ。さっき話をした軌道のゴミを処理するプロジェクトが見つけたんだ。そもそも計算できない軌道の浮遊物を、しかも違う惑星の公転軌道上の衛星を見つけるのなんて、とてつもない、殆ど奇跡みたいな偶然だった」

「そして発見された『のぞみ』は無事、宇宙開発研究公団によって回収された。『のぞみ』には一般の人から募集した名前とメッセージがコピーされたプレートが載っていて、それも回収されたんだ」僕は空を見上げる。夜空には軌道プラント衛星の青い光が浮かんでいる。それは目に見える速さで空を東から西へ横切っていく。

「そのプレートは60年前のみんなが思い思いの気持ちをのせた『宇宙のタイムカプセル』みたいなモノだった」「それとタカシの話はどう繋がるの?」「そのプレートのメッセージと名前は、宇宙開発研究公団の過去の資料とつき合わせて、それぞれの送り主とその子孫に送り返された。僕もメッセージを受け取った。僕の祖父はメッセージを送っていたんだ」

「そして、そこは僕の名前があったんだ」アイは僕の顔を覗き込む。「なんで60年前のプレートにタカシの名前があるの?まだ影も形もないじゃない」「うん。だから僕も不思議に思ってオヤジに聞いたんだ」

「祖父がメッセージを送る時と前後して、本当はオヤジの兄貴に当たる人が生まれるはずだったんだ。だけど、結局死産してしまった。僕の祖父はそれを悲しみ、せめて名前だけでも、と火星にメッセージを送った」僕はポケットに手を突っ込み、小さな紙切れを取り出す。

"本谷隆"
"生まれる事すら出来なかった私たちの息子です。"
"せめて星となって私たちをずっと見ていてください。"
"私たちは夜空を見るたびにあなたを思い出します。"

「これがその時のコピー。宇宙開発研究公団から送られてきたんだ」歩きながらだし、手元が暗くて紙の字はよく読めない。それでもアイは目を凝らしている。「さぁ着いた。ここが僕が来たかった場所だ」目の前には使い込まれた、でも綺麗に手入れされているログハウスがあった。「この家が僕の祖父がメッセージを書いた場所だ。僕の名前はここで形になったんだ」僕は門の鍵を外す。しばらく使っていなかったせいか、鍵が堅い。「僕の父親は僕が生まれる時、祖父からこのメッセージの話を聞いて、僕にその名前…タカシと言う名前を付けたんだ」

僕はアイの手を少しだけ強く握り、開いた方の手で西の空を指差す。「空を見上げてごらん?あそこに赤い星が見えるだろう?」「うん」「あれが火星だよ。地球から6000万kmぐらい離れているんだ」「6000万kmなんていわれてもよく判らないよ」

「よく判らない、か。きっとそう言う物だと僕も思う。ここでメッセージとなった僕の名前は63年前の今日、宇宙へ旅立った。名前は火星を目指し、偶然にも到着に失敗し、そうして親子3代の時間と奇跡のような確率を経て、ココに戻ってきた。この、僕と言う身体を使ってね」僕はアイの目を見つめる。

誰にとっても人生と言うのは、気の遠くなるような可能性の連続で、いつの時代になったとしても、それを目に見ることなんて出来ずに、結局は「よく判らない」ままに進んでいくのだと思う。だから僕らにとって大事なのは、良く判らないものであってもソレを受け入れる覚悟と、それすら乗り越える意思の力なんだろう。僕の人生は幾つもの想いを超えてここまで来た。だけどこれからは?誰が虹の上を走って、太陽の当たる場所へ行くのか?勿論、それは僕だ。何があっても僕の人生は僕のものだ。

「さ、行こうか。大体、必要な物は揃ってるはずだから」

僕はこれからこの子、アイに一生の伴侶となってもらうべく、お願いをするつもりだ。ポケットの奥には小さな指輪と、同じくらい小さな造花のミニチュア花束。僕の可能性がどっちに進んでいるのか、それは「よく判らない」。だけど覚悟は出来ている。それだけあれば充分だろう。今夜は火星も出ている。きっと僕の事を見守ってくれるさ、と僕は西の空を小さく見上げた後、アイを僕の名前が生まれた場所へと促した。