四川大地震に思う事、他

今日は用事があってある大きな駅で降りたのですが、地震義援金(募金?)をやっていました。街頭に立っていたのは、中国からの留学生と発音でわかる団体。あのよく通る独特の声は50m離れてもわかるのですが、まぁそこは関係なく。
なんだかあの一団を見て僕は…正直に言えばとても嫌な気持ちになってしまったのです。今日の僕は会社で義援金の募集があって、僕も500円程募金をしたのですが、その帰りに見た光景がなんだか嫌な気持ちになってしまい、そのあと色々考えてしまったのです。

なんで嫌な気持になったのかと言うと、2つ理由があって、他人の国に来て募金活動をすると言う考え方が、よく分からなかったのが一つ。例えば僕が外国に留学した際に、日本で地震が起きたら募金活動をするだろうか?いや、しないだろうなと思ったし、誰かが彼らにそれを入れ知恵したのかもな、と思うのも嫌な気持ちになる理由です。あと、僕は日本を「あなた方から助けを請われるような国ではない。その様な事をしなくても僕らは助けるのがあるべき姿だ」と思ったのかも知れません。中国の人が街頭で声を上げないと義援金すら集まらない日本の姿。僕は募金活動を通じてこれを見たのかも知れない。勿論、そんな事は無いのでしょうけど。
なんだか弱者から「あなた達は非道な人たちだ」と言われて居るような据わりの悪い気持を感じたのでした。

もう一つは、あんまり口にはしたくないのですが、長野での聖火リレーの件です。僕はあの件については詳しく語る知識は無いのですが、きっと聖火の周りを中国国旗で赤く染めたのは、彼らのような留学生なんだろうな、と思いました。自らの国の正しさを寸分も疑わず、チベットも台湾へもゴリ押しとしか思えないやり方を通して、それの不合理さに気が付けない国民。今の中国は僕にはそう映るのです。
西側の苦言には内政干渉だと突っぱねながら、漢民族に都合のいいように民族浄化を図る国。そして地震で苦境に陥るや、他国で平気で手を差し伸べろと声を張り上げる国民。
恥、と言う言葉はあまりに日本的ではあると思いますが、自らのスタンスを省みる事はあっても良いはずです。
もちろん、そこにいた留学生たちがそんなステロな連中だと言いたい訳ではありません。僕が2時間後に同じ場所を通った時、行きと変わらない男の子が声を上げていました。これは僕にはできません。自分が出来る事を本当に考えた末での募金活動なんだと思います。それはとても尊いものだと、僕は思います。

しかし、その声が大きければ大きいほど、僕は考え込んでしまうのです。

また、そうやって考え込むと、これは国民性の違いでもあるのだろうな、と思いました。どのような形であっても、溢れんばかりのバイタリティーで我が道を生ける国家。これが彼らのやり方だ、と言われるとこりゃ外交も一筋縄でいく訳がないな、と。

そこでふと思い出した会話がありました。父親との会話です。

先日、実家に帰った際に父親と話をする機会がありました。たまたまニュースかなんかを種にしたのだと思いますが、僕が「日本は国際的に浮いている気がする、それは戦争の歴史をぐずぐずと自省できずに来てしまったからではないか」と言うような、受け売りめいたことを父親に言うと「世の中にはそんな国があってもいいと思うが、どうか?」と切り返されたのでした。

その時は「何を甘い事を」と思ったんのですが、今日の出来事を見て、僕は父親の言いたいことが何となくわかった気がします。

恐らく父親は、日本が外交的に主役になれないのは戦後処理がどうこうではなく、国民性として真摯な振り返りができない国家、国民だ、と言いたかったのかも知れません。それを受け入れた上で進み方を考えなくては、と言う意味です。

僕は色々、見聞を広げたつもりでしたが、まだまだ父親と同じ地平には辿り着いてないのだな、と。

ちなみに街頭募金はしなかった。僕が出せる善意を換金すると500円が限度です。