秋葉原の事件を思って

月曜日の夜、献花に行ってきました。雨だと言うのに山のような花が置いてあり、事件のリアルさを感じました。またマスコミの人が笑顔で彼らの同僚と会話を交わすのを見て、彼らにとって、これは特別じゃなくて日々続く営みの一部なのだなぁ、との思いを持ちました(不思議と腹は立たなかったです)。
なぜ花を持って行ったかと言うと、悲しかったからです。僕は秋葉原が好きなので、そこで事件が起きるのは嫌で、起きてしまったのは悲しいです。秋葉原は永遠の文化祭のような街であって欲しかった。

ヤフーのコメント欄を見ると罵詈雑言やら嘆きやらが溢れていて悲しくなります。みんなこの事件の原因を欲しがっている。犯人が悪い、親が悪い、経済政策が悪い、派遣会社が悪い…。だけどそれら原因を求める言葉には続きがあると思うのです。

○○○○が悪いに違いない。(だから自分は悪くない)

みんな親に、経済に、派遣会社に期待しすぎです。彼らだって自分と同じ人間です。いくらだって間違いをする。自分がどれ程のものだと言うのか、自分は間違いをしても他人にはをれを許さないのか。原因(らしきもの)をヒステリックに攻め立てるのは脊髄反射以外の何物でもないです。エモーショナルな部分が悪いとは言いません。でも、それだけしか見えない近視眼的な反応は、本当の正解から遠ざかると思うのです。

今はその原因解明と対策立案ができるだけ有効なものとなるよう、また結論が妥当なものとなるか見極められるよう、自分を抑えてでも成り行きを見守るべきと思います。

僕は、被害に遭われた方とその家族ができるだけ辛い思いをしないで、この事件を過去のものとして受け入れられる日が来ることを願います。また自分にできる事をゆっくり考えていきたいと思います。

(6/19 追記)
犯人の供述を読むと、今回の犯行は復讐の側面が強いのだなぁ、と思いました。誰にも受け入れてもらえない、社会から拒絶されていると感じたのでしょうか。ただ、それでも彼には友人と思える人間はいたし、決して一人ではなかったはずです。
彼に足りなかったのは、自分が受け入れられていると感じられる感受性かも知れないし、一人で生きていけると思える強さやふてぶてしさかも知れません(勿論、犯罪を犯せない常識的な感覚も、ですが)。

彼は宮崎ほどの時間も掛からず、死刑執行となるでしょう。ただ、彼が死んだところでそれは雑草を引き抜いたような物だと思います。彼が犯罪を起こした理由を見つけられない限り、こう言った犯罪は続くでしょう。そして理由を見つけたとしても、それは今の日本には受け入れられないような気がします。つまり、宮崎のような真性キチガイではない、ある程度の社会性をもった大人が追い詰められて大量殺人に至る、そう言う犯罪は続くのだと。